汝が身は汝のものにあらず


変化が続くのは、何も時間だけに限らない。
肉体や皮、分子や原子ですらその本質を変化させながら変わって行くのだ。

原子や分子はその原子核などを変えることなく、いつかは終焉を迎える。
人の知ることが叶わぬ時間を生きる彼らは、そうして去ってゆく。

人間の体組織もしかり。
物理法則にのっとられて作られた肉体の細胞は、
新陳代謝の名の下に構成素材をどんどんと入れ替え、書き換えて、同じものを同じ構成材料で再建する。

廃棄された組織は、垢やつめや髪の毛などとなって人間の体から去ってゆく。
ならば、それが促進された状況は人間のどのような変化を指し示すのか。

「バイタル、変動が激しすぎます。」
「出血状況は?」
「出血、停止しています。」
助手達が悲鳴のような声を上げていた。
運ばれてきたのは老人のようにも見える、疲れ果てた顔の男だった。
恐怖など抱かぬ顔には、痛みにこらえるような表情が現われている。

テンカワアキト、火星に生れ落ちたボソンジャンプの寵児だった。
彼の腹には脇差が突き刺さり、肉体そのものには鎧のような黒のボディスーツがまとわれている。
切り開かれるように収納されたスーツの下、スェットを着用した状況で手術は行われていた。
開腹手術と脇差の摘出。徐々に刀身を引き抜き、ナノマシンコーティングによって傷口内部の縫合が行われている。
一般的な開腹手術はナノマシンで済んでいるのが23世紀だが、外傷がともなうものは、20世紀より変化はない。
「出血は止まっているが、傷そのものの縫合がナノマシンでできない。」 「なぜ。」
出血の止まった彼に輸血が行われているが、血液が内部へ侵入できない。
「内部ナノマシンの自己治癒行動を確認。神経系伝達ブースターナノマシンの処理速度が上昇中。」
「ナノマシンクリーナーのフィルターにどんどんナノマシンが詰まってます。」
助手達の声は、悲鳴に近かった。何が起こっているかが全員考えも付かないのだ。

ラピス・ラズリの三人を預けるときに、サクヤとアキトはシャワーを浴びる義務を負っていた。
他の火星の民が二日に一度のところを一日一回だ。
サクヤとアキトが共にシャワーを浴びて洗いあうことをしていたのも知っている。

処置用ベッドにアーマーを構成するナノマシンで拘束されたアキトの肉体は、
新陳代謝をしているのだという結果が診断AIによって伝えられる。

いや、その診断結果が成されて尚目の前に直面する光景に畏怖を抱かぬ者は居なかった。
外見は変わらない。垢などの体組織が崩壊するような光景は無い。ただひたすらに体組織内部の血管という血管。

毛細血管という毛細血管を通るナノマシンの明滅が繰り返される。光は微弱で、視認出来る程度だ。
だが、体の表面皮膚がひび割れる様子に直面して、何をイメージするだろうか。

ごちょり、がたんという音を立てて突き立てられた脇差が体から自然に抜き出でる。
筋肉の頑強さで押し上げたのではない。穴をふさぐために治癒が一環として行われた事だった。
「な、何だって。」
輸血チューブも押し出され、今まで外部より彼の肉体へ接続されていた機器が生命信号の確認ができなくなる。
「手術、不可能だ。」




「おれは・・・」
しんだな。
誰かがアキトに答えた。
「そうか。」
そうだ。でも、生きている。
「誰だ。」

おまえでもあり、だれでもある。
近似した存在は居ない。肉体の変換に際して最上位にあった貴殿に接触することとなった。
「だれだ。」

答えは無い。 「なんの目的だ。」
それは、ただひとつ。

古代火星人は、ボソンジャンプを継承するものでは無かった。ボソンジャンプを初めとして知識の蒐集者だった。
効率を重んじ、心象を深く考察し、提議して定義する。彼らは真たるボソンジャンプの継承者ではない。

ボソンジャンプを使うものは、古代火星人の得られぬ要素によって、
非効率であるこの技術を単純で当たり前の技術として酷使していたのだ。

心象の描く風景へと自身と対象とする物質の物理変換、自己の精神を既知空間に投影、
移送させて物理法則に則る形式で再構成する。

非効率と認定された遺跡は廃棄された。
宇宙の片隅、何処かにたどり着くだろうという想定の元。
いつか古代火星人が出会った彼らと遭遇する、偶然を願って。



「肉体組織の崩壊が開始します。」
医師の言葉に、手術室にてナノマシンクリーナの設定を行っていたヤマサキはアキトの体をゆすった。
「テンカワ・・」
声はつむがれない。肉体そのものにひび割れが生じている。
人間の身体の80パーセントは水で構成されている。 そして、外皮の皮膚によって保護されている。本来皮膚が荒れるという、ひびは存在する。

だが、凍結したように彼の体が割れた。 「触診します。」
ヤマサキが宣言してアキトの肉体を指圧する。力は強くなく弱くない程度、筋肉増強剤によってできていた筋肉には、
本来あるはずの繊維の堅さが無い。手を突いたところが、結晶化した水のような硬質反応をする。

瞳が空虚に開かれる。茶色いはずの瞳だ。
それだというのに、その瞳は金色を湛えている。
次の瞬間、テンカワアキトは死亡した。イレギュラーの生み出した因子の結実が象徴として。
「心配停止。肉体の生体反応が消失しました。」

計器データウインドウの状況が報告される。
「わかりました。彼は、死んだのですね。」
肉体が硬質化している。
「卵の殻にこもるつもりですか。」



初めて胎児が世界に出でたとき、その身体は脆弱であり何者からも侵略されうる弱者である。
生まれるという感覚を得るのは、肉体にとっては2度目のことだった。
一度目は母の胎で育てられ、産道という道を通って。

血液の脈動が聞こえた。桃色の髪の少女の首筋から血液を摂取した。 金色の瞳は己を捕らえ、信頼の心を寄せて彼女は差し出した。
意識の覚醒は無為に起こるもの。
此度の生はなんとも奇異な道程を経たものだった。

母は居ない。
胎内で成熟され、育たれることは無い。
一瞬で肉体は構成され、外殻のように存在した父であり自分でもある肉体は卵の殻のように崩壊している。
髪や四肢には殻であった肉体の血液や骨片、目に見えない機械たちがまとわり付くように存在した。

「寒いものだな。」
長くも無い髪の毛がうっとおしく、掻き揚げる。
血肉にまみれ、テンカワアキトという結晶化した物体のありえない胎から立ち上がる。

義手の収まっていた右腕には腕は無い。彼は「取り戻さなければ」と決意しながら、器用に片手で立ち上がった。
「テンカワ、くんなのか。」 七三わけを帽子に収めたヤマサキが問う。
「やあ、はじめましてになるな。ヤマサキ。早速出悪いが、義手とシャワーの用意をしてくれないか。」
衰弱しきり、死に瀕していたテンカワアキトは死んでいた。
そうして、少年と青年の中間とも言える彼は、シャワーとタオル、それに衣服の必要性を痛感した。

テンカワアキトの体が横たえられた担架から、おぼつきを見せずに降りる。
結晶化した彼の肉体は、液体と成って一塊となり、再びテンカワアキトの姿を作り出した。
「状況説明はいるか。」
「ええ、とても必要です。それに、今回の現象は報告したほうがいいですか。
「いや、やめてほしい。」
アキトは室外に出るまえに、自分から外されていたベルトを回収すると装備して展開した。 「それと、風呂に入りたい。」



やはり、空腹に人間は耐えられないものだ。
抑圧され、管理され、監視された状況で制限されていた食事量から開放されればなおさらである。


おかゆ状のカレーは用意された全て完食され、更に食料を求められるほどだった。
無論、急いで用意するのは不可能なので、全員にシャワーと其の後の睡眠が提案された。

火星の民は反対などしなかった。食べれば眠くなる。そんな生活は研究施設でも行われていた。
だが、それは自由と呼ぶことは出来ない営みだったのだ。自由が与えられた安堵から、彼らは支持に従う。

男女別れてシャワーの備えられた浴場へと連れてゆかれる。
ぞろぞろと整列して歩いてゆく彼らを眺めながら、ブルーシートが所々に敷かれた倉庫内の片隅で、
ラピスとアイとサキ、サクヤとヨシサダの5人は皿を集め終り、ゆったりと休んでいた。

「休んでいただくには、しっかりと清潔にしないとね。」
横に座るヨシサダの提案にサクヤはそうなのか。と思った。

感覚が麻痺してしまったのか、自分が酷く汚い状態に在るとは思えない。
くんくんとラピスとサキが自分の体臭を気にしているが、やはりというか自身の体臭には気付くことがなかなか難しい。

「そんなに酷いですか。」
「いや、君たちは酷すぎはない。他のものたちはきついがね。」
「そうですか。それでは、早速私たちもシャワーを借りたいのですが。」

ヨシサダは快く了解してくれると、女性仕官を呼び出して浴場とシャワーがある場所へと案内された。
女性仕官はゆっくりと歩調をあわせてくれた。

妊娠8ヶ月のサクヤといまだ歩くという行動に慣れていないラピスラズリの三人はしっかりと進むことが出来た。
「ほんとうに、お疲れ様です。」
何の気なしに掛けられた声に、サクヤはなんのことだろうかとおもったが、自分たちのことかと気付いた。

「ええ、本当に。」

何時からだっただろうか、感覚はすれていた。テンカワアキトという男に繋がり、共に行き、
母となったことでそのような疲れや異常に気付かなかった。

いや、気付かないようにしていたのだろう。人間誰しもがだ。
「ん。」
思わず両手に力が籠められてしまう。アイがモノ言いたげにしていたが、何も言わない。

「今回の救出には、ムネタケ准将も気を掛けていらっしゃったんですよ。」
「そうですか。」

そうとしか応えることなど出来なかった。サクヤは流れに付いてきただけなのだ。
そうして、このような状況に置かれていることが、なんだか信じられなった。

「士官用の入浴施設です。一般の軍人が使用するとは異なるので、ゆっくりしていらしてください。」
「着替えや、タオルは用意してもらえますか。」
「もちろんです。」

女性仕官の応えに満足すると、サクヤはラピスである3人を連れて脱衣所に入った。
既にバスタオルと手ぬぐいが用意されている。今まで身に着けていた病院服を脱ぎ捨てる。
ラピスもそれぞれにリボンを首と手首と髪から外していた。

長らくというわけではないが、濃密な時間を過ごしたせいだろうか。
サクヤには三人それぞれの性格の違いで三人を見分けていた。

ここに居る全員がやせ細っていた。妊婦であるサクヤも痩せている。

下着だけを身に着けたそれぞれの身体を見ると、一層そんなことを気にしてしまう。
下着を脱ぐときもそれぞれ違う行動が見て取れる。
アイとラピスは物怖じせずに脱いで裸身でいる。サキはちょっと隠すように脱いだ。

「手ぬぐいをもって。」
用意されていたかごから手ぬぐいを取ってみせる。
「行きましょう。」
何気なく歩いてゆくと脱衣場に血まみれのベルトが転がっているのを見つけた。
錯覚かもしれないが、手術へ向かったアキトの身に付けていたものだった。

浴場に入ってさらに気づく。浴場でシャワーの音がしている。
「ねえ、誰かはいっているのかな。」
サキがサクヤの手を握って聞いた。
「さあ、解からないわ。」

音は小さく、スライドドアは開いた。
湯気はあまり立っていない。だが、一人の影がシャワーを黙々と浴びて泡を洗い落としていた。
近づくまでも無く影の主は若い男だった。

生来西欧の血を流しているためにサクヤは実年齢の十七歳よりも年上に見られた。
現在18歳になり、母親になってもその容姿は完成された美女といえる。

それに対して、男の年若く見えるのはどうしたものか。

肉体は鍛えられているようには思えない、貧相でところどころに傷ができている。
本来あるはずの右腕は無い。
起用に左手のみで体と髪を洗っていた。 裸身を曝した彼は、裸身を曝して自身を観察するサクヤとラピスである3人に気づき、どこを隠すことなく微笑を向けた。

「風呂かい。」
「ええ。」

サクヤはぶっきらぼうに答える。お互い裸身を曝しているが、どうということはない。
同等の立場といえたので隠すことはしない。
だが、相手をにらむ。
「私たちは入浴と体を洗いのだけれど、男性は出て行ってもらえるかしら。」

男は「ああ」と気づいたようにして、ぬれた髪を義手でもって水気を払う。ぼさぼさで茶色の髪の毛が力弱く跳ねた。
「わかった、サクヤ。ラピスとアイとサキの髪の毛洗いがんばってな。」
手ぬぐいを手にとって彼は4人に向かって、正式に言えば出口に向かってきた。

近づいてくることによって、サクヤはこの青年の容姿をまじまじと見た。
そうして、彼が何故自分の名前を知っているのかを、彼が誰なのかを違和感と疑問の二つの感情として定義した。

すれ違うとき、ラピスだけが小さく気づいた事を口に出した。
「アキト。」
彼女の手が青年の手をとる。力ないが、それは引き止める腕。
「ラピス、また後に会える。だから、しっかりと洗ってくるんだ。」
彼は当然のように答え、サクヤに笑いを見せて脱衣所に去っていった。
「なん、ですって。」
信じられないが、現実は眼をそらすことを許さない。


テンカワアキトである、ありえない姿かたちの青年。

彼の形が変わった術は知らない。彼がその怪異を受け入れているのならそれはそれでよい。
けれども、彼が本当に彼なのかという自信が揺らいでしまう。

サクヤは彼が本当にテンカワアキトかを確かめる術が無い。
そして、アキトの腕と同様に彼の右腕は、なかった。


風呂を後にしようとして、テンカワアキトと呼称するにははばかれる青年は、脱衣所にて体を拭いていた。
先にであったラピスとアイとサキ、そしてサクヤ。

彼らと相対してテンカワアキトは心配にも似た感情を抱いていた。
もちろん、不安といえるか怪しいような、微弱な心配だが。
この姿になった自分を見て、変わってしまった、死んでしまった男を彼らは愛してくれるのだろうか。

「俺は・・」

彼女達と今まで同様に過ごしてゆけるのだろうか?彼らと同一のものへと向かう肉体は、
古代火星人が生み出した遺跡に芽生えた感情模索システムが生み出した、皮肉の産物だった。

基本的に肉体も意思もテンカワキトである。
だが、彼はやはりというべきかテンカワアキトでは無いという感覚と、テンカワアキトだという意思がある。

ゆえに、不安という形で彼は気にしてしまったのだ。
「まあ、それでもいいか。」
何とでもなる方法はない。だが、流れに沿って行くことはできるのだ。

用意されていた下着と、パジャマに似た病院服に着替える。
「また病院服か。なんだったらモールドでもいいのに。」
着替えて、彼はヤマサキのもとへと向かった。



浴室では、髪を洗う音やあわ立てた石鹸のついた垢すりで体をなでる音しかたたない。
「さっきのが、アキト。」
「そのようね。アキトだった。彼も認めた。」

サクヤとラピスは二人して髪を洗って泡を無造作につけたまま体を洗っている。 弱っては居ない肌だが、強く肌をこすることはせずに、撫でる様に垢を取っている。

「アキトはどうなったの。」
「私に解ると思う?」

二人だけで話していられるのは、アイとサキを最初に洗って二人が残ったからだ。
サクヤからしてみれば、一人でいたいところだが、等しく彼へと恋慕を抱く少女を供にして、体を洗うことにした。
シャワーを二人して浴びる。

そうして、裸身でサクヤは不安を押し込めるように、ラピスを抱きしめてみた。
「子供が生まれたら、こういう風に抱きしめてあげたいな。」
「うん、そうできたら良いね。」




「ヤマサキ、話しが通ってないようだな。」
ドアを開けて、端末に向かうヤマサキにアキトは言った。もちろん、言われた本人は何のことかわからない。
はて、と首をかしげて見せた。

「サクヤとラピスたちが浴場に来た。鉢合わせだよ。」
「ああ、そうですか。」

合点がいったというように、ヤマサキはポンと手のひらに拳骨を叩いて見せた。

「いいじゃないですか。若くなった、健全になった肉体を奥方と少女に披露できて。」
「なにが披露だ。現状を説明しないで会ったのは、あまり嬉しくないんだ。」
「はあ。」

「そんなものですかね、私には平然と説明したと言うのに。」
と、ヤマサキは言って端末を操作してウインドウを表示してくれた。

骨格図と筋肉図だ。それぞれがアキトの肉体のことを示し、木連の人間が見て尚驚くような状態となっている。
「ともかく驚きました。」
「ああ、俺もびっくりだ。」

アキトは軽口で答え、苦悩するように眉間にしわを寄せた
「やるべきことが増えた。ただ生き残ればいいとだけ思っていた。
でも、自分はこんな姿になって、目的意識が植え付けられた。」

「古代火星人の意思をあなたが知ることになっても、私はテンカワ君の行動を楽しみにしています。
もちろん、マシンチャイルドの娘さんや火星人のひとの未来もね。」
笑い、ベッドに視線を向けるヤマサキにアキトは呆れと賞賛の苦笑を洩らす。


「今日はどうします。説明は。」 「今日はいい。皆疲れているから、明日に説明しよう。」
アキトはヤマサキからコミュニケを受け取る。
ナデシコに乗艦していたときよりも発達した、黒の特殊時計。

IFSを通してウインドウを開く。古代火星の遺跡内部と、作り上げた古代火星人たちの姿。
脳裏ではアキトではない存在が、それを懐かしそうに仰ぎ見る。
アキトはその仰ぎ見る彼の感情を、理解しようとは思わなかった。ただ、その悲しみを受領した。

「俺たちは、ただ見守ることにしていたのに。」
つぶやいてみた。
説明しなくてはならないことがある。だけど、誰しもが疲れを見せていた。
説明すると言ったが、今日じゃなくてもよいのだ。
座っていたベッドに横たわった。



不意に意識がもどった。

ヤマサキが座っていたいすには、彼の姿は無く、室内にあるベッドが3つになっていた。
ラピスとアイとサキが一つにまとまって寝ていた。
サクヤが一人寝ていた。

囲いのあるベッドなので、落ちることは無い。
「ちょうどいい。呼び出そうか。」

アキトは手で上空に円を描き、収納していた彼女らを呼び出した。


安心しきった顔が、いまだに不安そうにする顔。
それぞれが室内にあらわれた人間の表情をあらわしている。
意識を覚醒しているのは5人はそろってベッドに座っていた。

アキトだけは不安そうにする少女達三人を自分の隣にみた。

「此処は実験しない」
一番年上の少女が聞いた。
「ああ、此処は実験しない。死ななくてもいい。ゆっくりしていいんだ。
「ほんとうにそうなのかな」
一人の少女が言った。

「さあ、現実を見てどう思うかで判断できるな。」
一番小さな子がもう眠たそうに瞼をこすっていた。

彼女達にとって、外界というのは実験する人というひと括りでしかない。
彼女達の記憶は唐突に途切れた後に、またしても唐突に再開された。

室内に呼び出された彼女たちは、早速コミュニケで呼び出されたヤマサキに紹介された

体を洗う入浴施設に女性仕官3人と供に入り、何もかもが初体験のことを味わって再びベッドの増えた部屋に戻った。
当然、ベッドで寝ることすら初めてだ。

試験管の中で出生まれた彼女たちへの扱いは、ラピスラズリプロジェクトの被験者達よりも酷い。
栄養を最低限与えていればいい、運動などは不必要という考え方の基に実行されていた。

ラピスたちが試験管から出た際に筋肉が発達して動けたのは、内部で筋肉が運動できる装置が付いていたからだ。
人形のように身動きできぬ人を、無理足りにでも動かすと言う行為によって、人体は筋肉への刺激を受ける。

そうして、発達しようの無いそれを活性化できる。
だが、彼女達にはそれらが満足に施されていない。

だからこそ、声を一言でも発するのに息が絶え絶えに成ってしまっていた。

「安心してもらっていい。もうあんなひどい実験はしない。たとえ実験をしても君達を殺すようなことなんて無いさ。」
体の感覚や肉体を新生したせいだろうか。物腰をやわらかくできていた。

実験によって、感覚の磨耗のよって擦り切れた語彙の数がまるで回復、増量されたかのように溢れ出る。
「保障は俺がしよう。」
安心していいという表情、声に彼女たちは安堵を覚えてくれたのか、こくりと頷いて体を完全に横たえて瞼を閉じる。
一番幼い少女はすでに眠りについていた。

「お休み。」
アキトは言った。
「おやすみ?」

不思議そうに聞く真ん中の少女。彼女は3人の少女の内で次女と言える年齢と体形をしていた。
「ああ、眠る前の挨拶だ。」
「そう、じゃあ、おやすみ」

瞼が閉じられる。
アキトは彼女たち3人の眠ったベッドから立ち上がった。

眠りに降りた3人の少女と、眠りに落ちていたラピスとアイ、サキの姿を見下ろす。
無言と静寂に包まれた室内で聞こえるそれらは、安堵を象徴するように穏やかだ。

ただ一人、瞳を閉じて自分の腕を掴んだ人間が一人。サクヤだった。

アキトは振り返って見る。目を薄く開いて、眠そうに彼女はアキトの服を掴んでいた。
サクヤの体を抱き寄せて、振り替えらせる。

体は相変わらず軽い。

カレーを何杯もおかわりした火星の人々の中でも、一番食べたのは妊婦だった、救出された人の中に妊婦は十八人いた。
当然サクヤもそれ相応に食べた。

清潔のための歯磨きを、入浴時にじっくりと行った。
アキトはサクヤの閉じられた瞼の上に口付ける。
「ん。」
「寝たふりはいけないな。」

苦笑を浮かべて勧告する。サクヤはアキトのそのような軽口を聞いたことは無かった。
瞳を開いて、改めてみる彼の姿人に警戒心の表情を見せる。

「警戒されるか、随分この身は人に嫌われる。」
「警戒するわ。姿形が変わった人間を、旦那だと思った人の真意がわからないんだから。」

声には泣きたいような感情があった。
「誰しも、他者の真意を知ることは出来ない。ひたすらに話してお互いを知るのみだ。感じるのみだよ。
サクヤには、それを理解して欲しい。

俺は、テンカワアキトではなくなったかもしれない。肉体もまっとうな人間とは違う。
それでも、君の連れ合いであるという意識に変わりは無い。」
「そう。」

体を横たえて、お互いを見詰め合う。

サクヤは涙目で、アキトは挑むような、救済を求めるような表情だった。
「もしかしたらだけど、初めて名前で呼んでくれた?」
「さあ、忘れた。」

サクヤの体を抱きしめて起き上がる。
追いかけてきた腕をやさしく掴んで握った後、離す。

ラピスとアイ、幼い二人の髪と腕のリボンを解いて、
寝入っているアイのゆるい首のチョーカー代わりのリボンも解く。

最後に、困惑した様子で涙をうっすらと流す今の妻に布団を掛ける。
「ちょっとヤマサキと話し合いに行って来る。」
「また秘密事。」
「ああ。」

サクヤの大人びた筈の顔に、困ったような幼い困惑が浮かんでいた。
「何時もそうね。」
「すまない。」

涙を親指で優しくぬぐい、アキトは彼女に口付けしてからただ一人、アキトは室内から出る。
一人の男と、自分自身に会うために。

ノックする。
「どうぞ。」
入室。そして待ち構えていた男を見下ろした。七三分けにされた髪の毛と、ひょうひょうとした笑顔。
ヤマサキヨシオそのひとが対応してくれた。
算段を付けていなかったというのに、彼は夜の帳の下りた部屋を指定して、アキトは研究室に入室した。

驚くことがひとつあった。
「はじめて見るよ。宇宙軍の制服か?」

ヤマサキは黒のスラックスに制服のような襟が付いた白の上着を着て、白衣を着ていた。
「ええ、以前とはちょっとデザインが変わりましたが、中尉という立場白だそうです。」
「いつの間にか制服が変わっていたんですよね。」

「そうか、知らなかったがな。」
室内にある三つのベッドのひとつの前に立った。
「これ、だな。」

膨らんでいるシーツが掛けられたそれは室内にある異物だった。
ヤマサキという医者と、室内はこれ以上に無く適合している。

だが、隠匿された人形はまるで此処が霊安室であるかのように、存在感と違和感を感じさせる。

シーツをひっぺがす。そうして中身をアキトは見下ろした。ヤマサキも隣に立ち、見下ろす。
はたして、シーツに隠されていたのは傷つき、磨耗した五感でアーマーを身に着けて戦い、
脇差に突き刺されたテンカワアキトの姿があった。

「で、肉体を再構成させておいて、私に何をさせようというのですか?」
「ああ、俺を死んでいることにして置いて欲しい。名実ともにな。」
ヤマサキの問いにアキトは答えた。

「自分は軍に完全所属するわけでもなく、民間人として生きていくつもりも無い。
マシンチャイルドを家族にした状態でそれが叶わないこと、おまえが解らないはずは無い。」

ヤマサキの苦笑を横目に見ながら、アキトはかつての肉体に手を乗せる。

脂肪など無い、筋肉にもなれなかった肉体だ。
内部質量はアキトの肉体を構成する上で搾取されてしまっている。

内部には空洞が広がって入るはずだ。
だが、明確な死因が判明しているのならば、調査されることは無いように構成した。


「それではどうするおつもりで?」
「サクヤの戸籍に俺を登録。年齢は彼女と同い年で誕生日は任せる。
それで軍の民間協力者として登録の後、部隊を発足する。できるならネルガルへ協力依頼も。
あちらへのコネはナデシコクルー、プロスペクター氏への直接連絡で。おれは似非18歳になる。」


「軍に身を置いて、どうするおつもりですか。」
ヤマサキは面白そうに言った。
アキトは軍にいるつもりは無いが、居ないつもりも無いというのだ。


「主演は俺たちで、舞台は世界。脚本は俺でやりたいことがある。」
気になる単語が出てくる。
「俺達とは、どちらのことで?」
ヤマサキは再び聞く。それを聞かずして何を聞けるだろうか。
「もちろん、俺と家族とお前だ。」
ニンマリとヤマサキは笑みを浮かべた。

「それはそれは、光栄というべきですかな。」
「そんな大層なことじゃない。あんたの力を見ているからいえるのさ。それに、オレの使い方も思いついた。」
義手が嵌っていない右の二の腕をなでた。
「銃を内蔵できる義手が欲しい。」
遺骸を指す。
「オレにも、こいつにも。」
胸に手を置く。
「良しなに。」
ヤマサキはアキトに言って、恭しく芝居じみた礼をして見せた。


宛がわれた部屋へと戻った。
家族と言える一団が眠っている室内には、やはり寝息しか聞こえない。
ラピスとサクヤの間にある空白に彼は身を横たえて自答する。過去をだ。

「ホシノルリは自分の何なのか?」
自問する。彼女は妹のいない、テンカワアキトの妹のような存在。
幼き保護すべき少女。
「ミスマルユリカは自分の何なのか?」

自問する。彼女は自身の妻であり、自身が相容れない太陽。
妻でありながら女のまま、女でありながら人間のまま。
カテゴライズできぬ不可思議な人間。

さて、自問しよう。テンカワアキトは何物なのか。

人間であった者。ボソンジャンプの成功者にして、エステバリスのパイロット。
今は人間と古代火星人の境界が薄まる、狭間に立つ者。
予定されていた因子と結実した彼らに近づき、成ることが確約された男。

だが、矢張りと言うべきか、アキトは自身を生存と進化へと導いた一人の少女と
自分の妻という立場になった女性が自分を定義する要素になると考えた。

サクヤとラピスラズリと共に無ければかれは生きることができたのか、ラピスラズリを必要として、
サクヤと交わって、等しく二人に愛というものを抱く。

ならば・・・
「俺は、家族の傍に居てやろうじゃないか。」
ほら、彼は気付くのが遅い。答えは真実とは限らないけれど、心が充足するには十分な結論だった。




改訂2008.6.11