憐憫なき、慈愛
牢獄の中は畳がしかれ、鉄条網によって作られる境界が空間を遮って人の侵入を拒む。
中央にある通路はコンクリートで作られた唯一の外界へと繋がる道だ。

暗鬱な研究所内に、孤独という観念は無い。

孤独であることを許されず大勢の同胞が担ぎこまれ、森林地帯の湖が見える研究所で研究は行われていた。
中央に敷かれた道を通って組織の軍人服姿の男達二人が一人の男を抱えてその牢獄の入り口へと近づいてきた。

火星の後継者と自らを名乗った、旧木連の有人部隊過激派。彼らは赤と薄茶色の軍服を着て、研究所に常駐している。
実験体である抱えられた男は、青の病院服を着ていて生気なく頭を垂れて視線は定まらずに世界に存在する。


座敷牢に捉えられた男と同じ格好をした男女ら
全ては連れられてきた男の姿を憐憫を抱くことなく、ただ虚ろに彼の帰還を認識する。

鉄条網の扉が開かれる。鋼鉄の境界線の中、牢獄には男が2人と女が3人居る。
そのなかの女が一人、抱え込まれて放りこまれた男にすがり寄った。

女は美しいと思える女だった。病院服越しにも見て取れるほどに膨らんだ乳房は余り大きくは無いが、
ほっそりとしていながら肉感のあるグラマラスと形容できる肉体。

だが、彼女は男を誘う肉体に反して整った顔には、青の鋭い瞳容貌があった。
悪く言えばぶっきらぼう。良く言えば無愛想だろう。

女は男を心配して彼を抱き寄せた。
ナノマシン、髪の毛よりも小さき機械の人工生命体。
その微々たるは物質世界に現存する存在の中では、なかなか小さいという部類に当てはめられる。
肉体はナノマシンを受け取り、甘受する。
拒否権など無い。ボソンジャンパーという部類に当てはめられる男は、ナノマシンを体中に宿して生きていた。

肉体は既にナノマシンだらけ。血液を一滴でもたらせば、感情を受領した機会どもは光を放って存在を主張する。
人間に創造されたマシンは、与えられた秩序に従い、与えられた使命を全うして、与えられた存在意義を果たす。

それは、人に作られた恣意の存在しない生命。

男は、ダークブラウンの髪の毛をかき乱して、全身に這いよる恐怖をなぎ払うために、体を荒々しく動かせた。
抱きついていた女は力なく男から剥がされるようにして、なぎ払われた。

じたばたと床を這い、体を動かす様は、動く術を失った虫だった。
蝶になれない定めを負った幼虫のようにうごめき、そぎ落とされた肉に巻かれた包帯からは、光を内包する朱がにじむ。


A級ジャンパー。
時空間を移動する技術を継承する遺失文明が残した遺跡から作られた、ボソンジャンプを可能とするもの。
彼らは地球の殖民惑星となった、火星に住んでいた者の中にあらわれた。

確率は十人に7人の割合となり、その詳細は調べること適わず、
第一次火星会戦にて失われた人間を除外した数から算出されている。


一人痛みと憎しみに体をうごめかせる男は、世界初ボソンジャンプを行なった人間だった。
地球と木星の戦い。後に火星大戦と総称する戦い。その第一次火星会戦にて男は絶望を見た。
残虐されてゆく人の血肉、幼子の笑み。機械の虫。

それらがボソンジャンプの始まりだった。
彼自身がそれを自覚して行なったわけではない。ただ、生ずるべき要素が彼に集っていただけ。
幼いときに喪った両親の残した、ボソンジャンプの鍵「チューリップクリスタル」が彼の一生の内で激動となる始まり。

男はナノマシンに蝕まれていた。

肉体に溢れ出すような、致死量を越えたナノマシンに、火星で生まれ育った肉体はけなげに耐えてくれる。
だが、脳にある積み込まれたナノマシンは彼の脳を圧迫させた。

感覚神経を麻痺させ、最初に聴覚を失い、嗅覚を失い、視覚を失い、触覚が薄れた。
全ての感覚が失われたわけではない。擦り切れるような神経は、健気に彼を支えるのだ。
だが、体が動いてくれても機械の虫は止まるころを知らない。

男を知るために、肉体は蝕まれる。

男は、三度訪れた感覚の喪失に耐えていた。恐ろしくて恐ろしくてたまらない。

失う恐怖は、何度となく男を苛む恐怖の対象だった。
どんなに、何度も失って、なくなったものを補って男は生きていたのだ。
だが、失うことに彼は慣れるという行為に慣れない。

なぜならば、人間がそうだからだ。
「どうしようもないじゃないか。」
失ってしまえばどうしようもない。得ることがあんなに難しかったというのに、失うのは一瞬なのだ。
ずいぶんと無慈悲ではないかと、思わず空へと唾棄するような思考を抱く。


振りほどいた女に視線を這わせた。
いつからだったのか記憶することが容易ではない世界で、彼女はアキトに近づいて近くに居た。
大丈夫だろうかという心配の視線は、アキトにとって暖かい世界を喚起させる実験場の中にある劇薬だった。

彼女の顔に心配の表情に表れない。鉄壁の無表情とは行かないが、彼女は感情を面に出さない。
初めに口付ける。次に抱きしめる。

そうして戸惑いを表さない彼女の胸に包まれて、喪われた感覚を全力稼動させて彼女を感知する。
甘いなどというロマンチックな匂いは無い。
限られたシャワーによる体を清める行為によって、体臭のきつさには事欠かない。
塩のような、砂糖のような匂い。言葉に表すことを躊躇う匂いだ。
服を剥ぐ。なに、此処にはあふれ出すような光景だ。


「テンカワ君。」
いつの間に来ていたのだろう?座敷牢の前には白衣の男性が立っていた。
誰かと聞かれれば、お医者といったところか。
医者というものは白い色をイメージさせる職業だ。

だが、この目の前の男の白は何もかもを、人間というものを漂白するような白だった。
「実験だよ。久しぶりの接触実験だ。」
接触実験。それは火星に住まっていた民を誘拐し、人体実験を行っている火星の後継者。
旧「木連」の過激派が行う実験のひとつだ。

彼等が独自に回収した「ボソンジャンプ」のブラックボックスである遺跡に、実験体のIFSを用いて接触する実験。

「そうかい。」
今まで自分が生きているのがどうにも、感じられない。テンカワキトという男はそう感じていた。
恐怖は自身のうちに住み、こびりつくように離れなかった生の感覚だった。

だが、それが遺跡との接触実験を行った後から、どうにも希薄に成っているようで成らなかった。

それだというのに、その感覚の磨耗すら磨耗と感じられない。
疲れきって倒れた女、サクヤといっただろうか。彼女の乱れた服装を簡単に正してやった。
病院着の陰部にこぼれた葛湯のようなアレに張り付いていたが、気にはしない。

牢から久しぶりに思える13時間ぶりに出され、接触実験へと赴く。

接触実験において、A級ジャンパーは自身の肉体をボース粒子に変換して干渉することが役割とされている。
一部の脳組織に遺跡が直接接続用の端末を形成するために、遺伝子の変換が瞬時になされているのが、
このボース粒子変換行動の理由とされる。

そのときにジャンパーが感じるのは、ひたすらに己の過去である。
テンカワアキトにとってもその症例は例外ではない。
彼が遺跡のブラックボックスに接触するときは、己の過ちが一番に出てきやすい。

そのひとつが金色の髪の女性博士と、栗色に碧眼の女の子。
彼等がテンカワキトという青年の原罪にある。
幼くしてなくした両親は原罪ではなく、彼等自身の行動に対して行われた一部の世界が答え。
テンカワキト自身に関しての罪ではない。

「おにいちゃん。」
それは虚構で彼に語りかける。内なる精神に何かが土足で踏み入って切開してゆく。
模倣された精神と、模倣された容姿は真贋を問うことの出来ない、過去の記録から再現されたもの。
「ねえ、おにいちゃん。」

アキトはひたすらに原罪の少女をかたどった何かを無視する。
「ねえ。」
自分というものがまるで何だか理解できない気がした。

ボース粒子が体をどんどん変換してゆく。
アキトはそれに寒々しさを覚えるくらいだった。

「ねえ・・・・」
肩に何か手が触れる感触がした。
自身が感知するような力だ。それほどの強さの何かが、精神で感じることはあっただろうかとアキトは考える。
「ねえ」
一際強い語調で彼女が問うた後に、少女の形は一気に崩れる。

ただ、人間の形をした黒が彼の肩から腕を回して拘束する。
それは幻覚であると冷静なテンカワキトであるはずの誰かがテンカワキトの脳裏にささやいた。



接触実験を終えると体中に電極やら、信号を受信するアタッチメントを固定していたテープがはずされる。

実験の終りだった。体が自分のものじゃないような錯覚が強くなっていた。
寝台から無理やり起こされて、蹴落とされても、他人事だった。

研究者にけられた。どうでも良かった。火星の後継者にぶたれた。いや、ぶたれたのだろう。
推測するしかない、過去に起こった自分についての出来事は、気を滅入らせるには十分だった。


彼の立場的にリンチが彼を襲うのは数少ないわけではない。原因は彼の経歴にある。
火星の後継者と名乗る者達は、木星から追われたタカ派である火星の軍人達である。
中核となっているのは、元木連中将クサカベハルキ。


彼が実験場に現れることは今まで無いが、その私設暗殺軍団は実験場へとたびたびやってくる。
暗殺集団は、編み笠にマントという時代錯誤ないで立ちに、時代錯誤な武器を携帯して行動している。
彼らの隊長の名は北辰といって、片目が赤の義眼の異形の男である。
そして、北辰が束ねる暗殺集団こそが火星の住人を誘拐する実行部隊であった。

彼は火星の民でボソンジャンプを始めて行いったナデシコという戦艦の機動兵器パイロットで、地球側の勇者だったから。
それゆえに彼等はアキトを虐待の対象とした。
その行動は全く持って意味などないのに。

幕間

遺跡はひたすらに流れ込んでくる情報を受領するために作られた。
遺跡と呼ばれるものはひたすらに、流れてくる情報を受け止め、
受け入れ、先人の作り出した選別の定義をもって情報を裁いていた。

だが、いつまでも遺跡は沈黙するわけには行かなかった。
戦争の火種となる欠陥品としてのレッテルを貼られた遺跡。

金色の外部世界への接続と、干渉を可能とした、遺跡を作り出した古代火星人たちであった、異形の種族が持ちえた技術の再現。

異形たちはボソンジャンプを確かに行っていた。

世界の理を以って解析を可能とした彼等と古代火星人が呼称した種族。

遺跡は彼等の、遺跡を持たずにボソンジャンプしていた種族の技術を再現するための実験装置だった。
遺跡はひたすらに流れ込む情報を裁いている内に、一定の情報を送信せず、受信しかしない固体があることに気づく。

それが、人間の一部のものであることが遺跡の知るところと成るのに時間は掛からなかった。
送受信できないわけではない。


こちらは意思という恣意的な情報を伝達し、物質の形状情報を伝達することが可能なボース粒子から情報をうけとる。
送受信を行えるからこそ、ボソンジャンプの再現が可能なのであり、遺跡は移動に関する情報を裁くことに特化していた。

だからこそだろう、送受信できても向こうが理解をできるかということは不可能に近かった。
思いという恣意的なものを、一定の定義に当てはめる機械として、
コンタクトを取ることは単語をあちらへと伝えるのが精一杯の筈だった。
此処で遺跡にはひとつの考えが生まれた。

人々の感情の入り混じった情報から、移動したい位置を特定する作業を続けることによって、
遺跡はある程度の感情などを定義に当てはめて人間という生き物を限定的に理解した。


そして、自身の身の振り方のひとつとして、守護者を必要とした。
戦闘や情報戦によって自身に干渉出来ない状態へと移行できる極冠遺跡への体の搬入と、
極冠に置かれた人間からしての砦と城の意味を持つ大聖堂の起動を実現させるための因子を。



「此処は。」
見渡す。ほの暗かった室内には、縦に並んだぶっとい試験管の中から発せられる光と、床に埋め込まれた光しか光源が無い。
そのために視界が慣れてゆくたびに広がって、アキトは眉をしかめて目の前の景色を眺めた。
「何処だ。」
呟いて、立ち尽くす。目の前にある光景の中、異物のように存在して発光するぶっとい試験管は唯の照明機材ではない。
近づいてその中身を覗きたいところだが、視界が歪んで仕方がない。

知らない知識が頭の中をよぎった。手首の骨を中心として光の円が構成される。
ボソンジャンプにおけるボース粒子への干渉起動コード、それを視覚に顕した式。

ガシャンという音と共に、試験管が破壊された。

歪みの原因だった試験管が破壊されて視界が明瞭になる。そして、自身の肉体が戒めより放たれる。
培養液がたっぷりと注がれ、酸素マスクと排出物である糞尿を集める機械に繋がれた幼い少女が試験管から脱出する。


意識の混濁はないが、記憶が定まらない。歪んだ視界は回復を見せて、喪われた認識が賦活する。
自分が女か男だかを思い出してみれば、男だったはずでありもっと身長。

つまりは視点が高かったはずなのに低くなっていた。
周りを見渡してみれば彼女の肢体を借りた彼の目の前には、
先ほどまで彼が納まっていた培養槽と同じものが六本林立していた。
試験管一つ一つには年齢の異なる少女が納まり、その肢体は人形じみて均等的な美しさを持っている。

彼は知らないはずの知識が脳裏に存在しても疑問を抱かずに、いまだ培養液が滴る体を震えながら動かす。
滅多に動かさず、稼動していなかった筋肉が立つはずのないバリバリという擬音幻聴させる。
それをアキトは無視して、力が体に入らない状態で動かす。

やっとたどり着いた試験管の一つに手のひらを突いた。
少女の胸に手をかざして、試験管に触れながら意識を手のひらへと集中する。
イメージングに近くて遠い、意識は深層部分まで達せずに、呼吸するかのように当然にそれを行なう。

「崩御」

舌足らずの、動いたことがあまりにも無かった声が伝達された。
コマンドを入力。最初に自分以外の意思が行なった行動をなぞった行動。

音も無く、試験管が崩れた。
囚われていた少女が水槽の世界から開放され、力なく倒れこむ。その様子を見て、それを見下ろす少女な彼は嗜虐心を覚えた。
酸素マスクを傷つかないように外して器具を外した。

晒されるのは、人形じみた日光を浴びたことの無い白磁器の肌。見上げる瞳は金色の色。
それらの容姿は、少女が人間以外の何かで在ると思わせるものだ。

培養液という揺り篭から現実の荊へと降り立った少女は咳き込んで、体内に入っていた培養液を精一杯に吐き出していた。
唾液や体液の入り混じった、粘液を伴う培養液が床にはき捨てられる。
少女が咳き込んで必死に生きようとする姿。その姿を、生きようとする白い肌の血管を見て彼はほくそえむ。


青い筋が彼女の全身を伝っている。
人形でないと否定する生命の象徴である赤の液体、血の流れる血管だ。
体組織をはじめとして、体には遺伝子という人間の製作コードがあふれるように存在する。
もちろん、人間の持つコードは遺伝によって継承され、変化しているが基本的なものは人間として変わらない。

だが、そこに個体差が現われる。遺跡に適合する固体遺伝子は、
マシンチャイルドと呼ばれる遺伝子操作に適応することができる者が最適だった。
ゆえに、確認するためにそれをやらなくてはならない。


顔ではなるべく怖がらせないように笑いかけ、
咳き込む少女の顔を両の手のひらで包み込み、体温を確認した後にやさしく抱きしめる。

冷たい肌は、ぷるぷると震えていた。いや、アキト自身が降ろされた少女もまた、体を震わせていた。
本来なら死体同然の意識が無い状態の肉体を稼動させたのだから、仕方が無い。

また、培養液が凍結せずに、人が冬眠状態に維持されるように流動する液体だったことも原因だろう。
暖かかったジェル状の培養液は外気の寒さを取り込み、彼はその寒さを暖めるように抱きしめる。

始めは驚きの表情、次に何をすればいいのだろうかという不安そうな仕草。
そして、最後に安心感を覚えたような安堵の、眠りに付くような表情。
変化する少女の心。


恐怖の表情は抱擁とぬくもりの暖かさで消えた。
何処と無く安心した、安堵の顔を彼は胸の中の少女に見つける。

遺跡の意識内部に設置された対外システムによって起こるはずのないイレギュラー。
起こりうるであろうと古代火星人が想定しなかった、守護者の思想と構築によって生まれた彼らの写し身。

テンカワアキトである彼は疑いようのない人間であり、彼らに成り得る資格を得た。


微笑みにもにた安堵の少女を見て、彼は歓喜をどこかで感じる。
それが、どこの誰かを判別できない自分の感情だということすら、彼は感じていない。

僅かに抱擁を解いて、「何をするの?」と不思議そうな表情を見せる少女に彼は顎に優しく手を添えて持ち上げると
桃色に成り始めた、生気の息吹があふれようとする唇に口付けるだけではない、ディープキスを幼い少女へと行なう。

そして、そのキスを行う彼の肉体もまた、少女のものであった。

知りもしない経験上をなぞって、出来る限り彼女の乳歯が自分に噛み付かないよう、慎重に。

驚きの表情はなかなか溶けてくれない。

けれど、根気よく舌で少女を撫でさする。
次に、表情が朗らかに、どこか羞恥を覚えるように赤らめることを確認する。
もうすぐだな、と何処からかその思考が彼の脳裏に浮かび上がった。

今からする行動も、今までした行動も。すべてが熱に浮かされて、酒に酔うような現実なのだ。
いまだ行っていないが、やるべきことは決まっていた。

口付けを終えると、彼は何をするのだという表情の少女の首筋を露出させた。
僅かに脈動する血液の流れが、魅惑的に見える。

「大丈夫だよ。」
言って、彼はその首筋にキスするように齧り付いた。
白磁器のような肌は、その外見と違い柔らかく外部の痛みを受け入れる。
感じたことの無い鈍い痛みを彼女は感じているはずだ。

外界に肉体を曝し、初めて感じた空気の風や、脚に感じるグレーチングのわずかなとげとげの痛みとも違う痛み。
だが、実情としては痛みは大きなものの筈だ。

なぜならば彼はキスの最中に体液を変化させた麻酔効果のあるものを流し、痛みを軽減させている。
八重歯の位置、そこに嵌るチューリップクリスタルで構成された犬歯で彼女の動脈に進入している。

血液は赤く。マシンチャイルドが人間だということを認識させる。
次に、彼は脳裏に沸く感嘆の意思を感じ。身体を高潮させた。

高揚の感覚。それは瞬間に訪れる。
原因は血液に含まれるナノマシンはや血液そのものではない。

遺伝子というコードを読み取ること、それが自身にもっとも適合できるかという度合い。
それが彼の感じる甘味なのだ。
適合した血液の、遺伝子のコードに彼は酔いしれた。

血液に含まれる遺伝子情報を読み取り、それを媒体としてナノマシンを制御下に置く。
次に遺伝子の情報を黒い人型の肉体へとフィードバックできるように保存する。
いつか行われる同化、その宿主の遺伝子に干渉させて親和させてゆく。

同化に行われる改変は、微々たる変化であるが、通常の人間がB級ジャンパーへと遺伝子改変を行うのと同じもので、
痛みというものが存在するし、熱に浮かされる場合もある。
親和しなければいまだ定まらぬ宿主の魂存在はすぐさまに死での旅路へと出発するものだ。

だからこそではないが、彼はやめない。血液とちびちびと舌先でいぢって味わう。
最後に、コードを認識する。彼は意図せずに脳裏で感じていた。

違う。と

違っていた。コードを認識する限りきわめて近いと言えただろう。
配列の僅かな変化で、至るべきむこうへの鍵に相似しているものへ劣化していた。
それゆえに、口惜しいという感情が湧いた。
ああ、この娘は違うと。

痛みに麻酔を掛けて、痛み止めのために唾液で満遍なく噛んだ跡を癒そうとした。
無駄なことをしているという認識と、これで大丈夫だという認識の二つが生まれた。

「・・・」
無言だった。
何を言う必要も無い。
死にかけの肉体に宿った、いまだ定まらぬパーソナリティーを抱えて、
彼は陶酔の表情を浮かべる少女に差し伸べた抱擁の腕を解いて彼女を横たえる。
「何時になったら」
他の試験管一つ一つに触れて破壊する。
「出会える。」

遺跡の内にある彼の産声は上がらない。テンカワアキトではないテンカワアキトの産声もあがらない。 そして、歓喜の涙も流れない。
彼らと同じ階位に置かれた者。古代火星人たちが出会えなかった「彼ら」に近似した存在。
偶発的であっても、生まれることすら考えられなかった彼らと同じ階位に立つ者の因子を、アキトは脳裏に捕らえている。
その数、わずかに50以下。


アキトはいつまでも生きていることはない。テンカワアキトの死は遠くなく、近くない。
出会えなかったことを確認すると、機械的に少女達の情報を読み取って凍結処理を行う。
いつまでも無秩序に保管され、死なれるよりも保存したほうが有益だという判断だった。

「心配することはない。」

吸血したことによって、頬が紅潮している3人の少女達は例外なく無表情だ。だが、それは外見的なものにしか過ぎない。
アキトは彼女達の瞳から、不安を容易に感じ取ることが出来た。
「いずれこの体ではない、姿は違う私が君達を起こそう。」

「何処か、それまで私たちは寝ている。」
舌足らずの質問に答えて、アキトは干渉起動コードを展開して3人を格納した後に消え去る。
残されるのは炎に包まれる研究所と、亡骸となっていたアキトの憑いていた少女の抜け殻のみだった。



改定:2008.6.4
http://misteliusblue.oboroduki.com/